川田禎子歌集『水中飛翔』を読む  ―連凧およぐ先の一点                          奥村晃作


 「あとがき」の頭の部分を引く。「この度、たっての念願であった第一歌集『水中飛翔』を上梓することができました。長い歌歴を持ちながら今まで一冊の歌集も出すことが出来ず、最晩年になりやっとのことで大きな決心がついたといったところです」

 川田さんは大正十五年生まれ、本年、九十五歳、歌集を編まれ、出された昨年は九十四歳であられた。

 九つのパートに分けて編まれてある。始めから順次に読み進めてみよう。

 

 先ず、「Ⅰ 海の記憶」から三首引く。

水中の餌を獲り海面を突きぬける鳥はすがたを束の間さらす

 トビウオを詠んだ歌と思われる。

「蛸やのおつさん」となじむ漁師に小舟より放りこまれて覚えし泳ぎ

 遥かなる幼き日の回想の歌。こんな形で泳ぎを覚えるなんて凄い。

月光につつまれくろき流木は獣のごとく砂浜に座す

流木が生き物の如くに詠まれ、その存在が荘厳されている。

 

「Ⅱ 輪唱」「Ⅲ 屈折光」から引く。

からすうりの花しらじらと夜ひらく林のなかにかもす幽玄

 下の句の表現が的確で美しい。

突風に襲はれよろこびあらはすか魚の風鈴はね踊るなり

 「魚の風鈴」が命を持ち、喜んでいる。

「立つ女」の削りとられし肉体のするどき像に極限を見ん

 ジャコメッティの女人の立像がさながらに写し取られている。

 

「Ⅳ 使徒」の「鬼」八首から三首引く。

逃げまどふ鬼のすがたを探したり庭園灯の明るき庭に

打ち豆に追はれし鬼をかくまふや泰山木の影みつめをり

闇のなか人の仕業のおかしさを腹をかかへて鬼笑ふらん

 広い庭園での鬼遣らいの歌。まことに愉快な鬼の姿が描かれている。

 

「Ⅴ 天秤」には父親と夫に関わる歌が収められている。

キュー握る幼き我にビリヤード教へし父の毛深き腕

 ビリヤードを教える父親の「毛深き腕」の表現がいい。

まざまざと父のてのひら思ひ出すキューを華麗に操るかたち

 キューを操る「父のてのひら」の身体表現がいい。

病む夫の腕に静かに落ちゆける小さき障りを癒すしたたり

「小さき障り」はどんな病状か。それを癒す点滴の様が歌われている。

とこしへに夢を抱きて逝く夫かソファーに小さきくぼみを残し

 夫が常に坐っていたソファー。その「小さきくぼみ」を哀惜する作者。次の二首には夫の遺品の腕時計が歌われていて、作者の深い思いが伝わってくる。

仏壇に夫のかたみの腕時計みとせ違はず時おくり来し

真夜中の寒さにめざめ寝がへりてしばらく聴くは秒針の音

 

「Ⅵ 面輪」から一首引く。

母の忌の我が誕生日ちかづきぬ八重の桜は盛りあがり咲く

八重桜が咲く時節に母上はお亡くなりになり、その日がまた作者の誕生日なのですね。

 

「Ⅶ 百合唐草」所収「五彩」十二首より五首を引く。

切り屑は今日の仕事の嵩ならむ木の葉の形の完成ちかし

 「木の葉」の形のものが切り出されている。

眼裏の残像なりし葉脈を胸にきざみて眠りにつかん

 「木の葉」の葉脈がくっきりと鮮やかに歌われている。

目つむれば五彩はうごく眼底に染まるは布の上のみならず

 五彩の染柄を眼底にしかと見詰めている。

もの言はず一日をこめて蜆蝶の翅を休める姿を染めぬ

 一日かけて、心をこめて蜆蝶が翅を休める姿が染め上げられた。

蝶の翅の藍ゆつくりと差しゆけり飛びたつ姿をまぶたに浮かべ

 蝶の翅の藍染め。飛び立つ姿が作者には見えて来る。

 

「Ⅷ 陽炎」及び「Ⅸ 強き糸」には己が姿も歌われている。

水の上に水を重ねて落つる滝烈しき音は耳を震はす

 滝が勢いよく落ちる様を見詰め、耳ではその激しい音を聞きとっている。

命なきものといへども庭石はときをり不意に表情を変ふ

 庭石が時にいきなりその表情を変えると、庭石の命を見詰めて歌う。

ローリエの香り満ちゐるキッチンに赤ワインの栓音立てて抜く

「ローリエの香り満ちゐるキッチン」と、どんなつまみが用意されているのか。赤ワインを好みたしなまれる作者。

 毅然として、また豊かに生きる作者の姿が彷彿とする三首を上げて、この文を閉じる。

仲の良き友みな逝きて海岸の真夏の日差しにうなじ焼かるる

谷底の冷水汲みあげベランダの朝餉の卓にコーヒー立つる

 

砂に坐し己が行くすゑ見つめんか連凧およぐ先の一点



奥村晃作の世界へようこそ!


果敢なる挑戦 ―現代短歌(字余りと句跨り)はかく拓かれた         奥村 晃作

果敢なる挑戦

―現代短歌(字余りと句跨り)はかく拓かれた

 

奥村 晃作

 

   1 現代短歌における字余り歌

 近代短歌は五句三十一音の定型が、フォルムがきっかりと守られ、言葉の流れも、調べの流れも順直で、なだらかで、句法も安定して安らかであった。典型の歌人の島木赤彦の作から二首を引く。

みづうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波

にうつろふ         『太虚集』

隣室に(ふみ)よむ子らの声きけば心に()みて生き

たかりけり         『柿蔭集』

 二首共に定型は守られ、句法は順直で、意味や韻律、調子の流れが安らかである。

 現代短歌では字余りが普通になってきている。むしろ基調となっている。近代短歌はほぼ、或いはピタリ三十一音であったが、今の時代の歌、即ち現代短歌は限りなく三十二音に近付いていることは、データ的にも実証されている(スペースがなく、ここには紹介出来ないが)

 現代短歌の作例として(僭越ながら)拙作から二首を引かせて頂く。

次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな

前を向く         『三齢幼虫』

 四句が一音の余り。つまり七音のところが八音となっている。

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボー

ルペン買ひに文具店に行く 『鴇色の足』

 初句、四句、五句がそれぞれ一音の余り、全体で三音の字余り歌である(拗音など半音くらいの場合もあるが、ここでは全て一音にかぞえた)

以上の二首に見られる字余りは、内容を、世界を的確に、べストに現わした結果の、必然の字余りであり、字余り即破調ではなく、この場合はむしろ正調のリズムなのである。

 現代短歌における字余りは、土屋文明の限度を超えるほどのギリギリの、力業(ちからわざ)の表現行為が一挙にもたらした。

昭和十年刊の『山谷集』から二首を引く。

小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町(しじつちやう)

夜ならむとす

吾が見るは鶴見埋立地の一隅ながらほしいま

まなり機械力専制は

 一首目は、初句が二音の、第二句と三句がそれぞれ一音の、更に第四句が二音の字余り。結句の他は全て字余り、全体で六音の字余り歌である。二首目は全体として七音の字余り。二首ともに大幅な字余り歌ではあるが、いずれの場合も内容に即したベストの表現がなされており、必然の字余りと言えよう。

     *

 今時点で体感的に言うならば、初句は六音・七音有り、二句は八音有り、三句は要の句であるから、五音がほぼ守られている。四句は容量が大きく倍の十四音まで有り、五句は一音の余り有りである。

 近代短歌ではあり得なかった初句の字余り、それも二音の字余りを、近代短歌がまだ基調の最中にあって、大胆にもやってのけ、初句七音に道を拓いたのは塚本邦雄。二首例歌を上げて置く。

乳房その他に溺れてわれら()る夜をすなはち

立ちてねむれり馬は   『水銀伝説』

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人恋はば

人あやむるこころ     『感幻楽』

     *

 四句はキャパシティーが大きくこんにちの現代短歌においては七音の倍の十四音まで有りと前に書いたが、作例として宮柊二の歌を上げる。

怒をばしづめんとして地の(はて)白大陸(しろたいりく)(あん)(りよく)(かい)

をしのびゐたりき    『多く夜の歌』

四句の「白大陸(しろたいりく)(あん)(りよく)(かい)」は十三音であり、これが内容に見合ったベストの表現。仮に「(あん)(りよく)(かい)」を省き、次のようにすれば定型の歌となるが、定型を守ればよいと言うものではないことは、読み比べてみれば明らかであろう。

怒をばしづめんとして地の(はて)白大陸(しろたいりく)をしの

びゐたりき

 

   2 句跨りの歌

 赤彦の歌、つまり近代短歌はフォルムがきっちりと守られ、一首の言葉の流れが、調べがなだらかで、順直で、句法が安らかであったが、現代短歌においてはそれはもう期し難い。

遥かに複雑な時代に生き、複雑な暮らしをするわれら現代人の短歌は、安らかならざる句法、即ち句跨りを頻繁に使わざるを得ないのである。これに道を拓いたのは塚本邦雄であった。

塚本邦雄の歌から二首を上げる。いずれも『水葬物語』から引く。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液

化してゆくピアノ

 句ごとに切った、分けた表示をする。

革命歌 作詞家に凭り かかられて すこし

づつ液化 してゆくピアノ

二句から三句に、また四句から五句に句跨りが認められる。二首目についても、同様な形にしてみよう。

海底に夜ごとしづかに溶けゐつつあらむ。航空

母艦も火夫も

海底に 夜ごとしづかに 溶けゐつつ あら

む。航空 母艦も火夫も

 三句から四句にかけて、また四句から五句にかけて句跨りが認められる。

 句跨りの句法は近代短歌にも、それ以前にも散見されるが、現代短歌における必然の句法として取り入れたのは塚本邦雄の手柄であった。

 こんにちの現代短歌において句跨りがごくありふれた句法として、技として行われていることの例示として、風間博夫の二首を先月(十月)の市川教室の詠草集から引く。題詠「紙」の提出歌。

紙婚式などなどあれどどれもせずせめて金婚

式は祝はん

紙パック入りの焼酎・酒・ワイン・ウイスキー 

有り ビールは有らず

 一首目、四句から五句にかけての、二首目は初句から二句にかけての句跨りが有効に働いている。

さて、土屋文明、また塚本邦雄の表現における果敢な、個性的な試行が、現代短歌を成立せしめたことについての考察は以上で終えることにする。

 

  3 表現のさじ加減が怪しく思われる場合

短歌を読む場合は必ず五七五七七の句ごとに切って読む、その場合に短歌は初めて短歌として成立する。そうした読み方を〈短歌読み〉或いは、〈韻律読み〉と言う。句跨りのレトリックもそのような読み方の上に成立する。

塚本邦雄の次の歌の場合はどうであろうか。

燻製卵はるけき火事の香にみちて母がわれ生

みたること(ゆる)      『水銀伝説』

下の句が句跨りである。区切って読むと「母がわれ生み」「たること(ゆる)」となるが、わたしはこの場合は、意味で区切って読む読み方が良いと思われる。つまり「母がわれ」「生みたること(ゆる)」と読む。

 次の歌の場合も同様の指摘をしたい(上の句の句跨りに関しては全く問題は無い)

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみ

どりの格子        『緑色研究』

「頼信紙のうす」「みどりの格子」よりも意味で区切った「頼信紙の」「うすみどりの格子」の読みの方が良いように思われる。あるいは双方読みをする。

 

   4 内容面からの補足

 近代短歌は私性、即ち私の表現を主軸としたが、現代短歌においては必ずしもその事は言えなくなった。ある程度まとまった歌を読んでも、作者像は現われはしない。その類の歌の方が多いはずだ。

 さらに言うなら、こんにちはミックス短歌の時代である。大多数は文語を基調として一部に口語が斡旋される形でのミックス短歌。更に進むと、むしろ口語が基調となり、部分的に文語が交じるミックス短歌。更にこんにちでは完全口語短歌が確実に進展し、広く行われている。つまり、旧人はミックス短歌。十代、二十代、三十代の若者は完全口語短歌で歌う、それがこんにちの現代短歌の偽らざる姿であるだろう。

 

『短歌』二〇一九年二月号

 

 


ロングインタビュー奥村晃作さんに聞く―江戸期から今につながる「ただごと歌」  聞き手― 久々湊盈子

―― 昭和五十四年に出版された奥村さんの第一歌集『三齢

幼虫』は蚕の歌だろうと思って読みはじめたら、甲虫のこと

で意外だったのでよく覚えています。略歴を拝見して驚いた

のですが、東大を卒業されて三井物産に入社されたのになん

と僅か二年で退社されているのですね。難関の東大経済学部

から一流商社、というエリートコースをどういう経緯でお辞

めになったのですか、まったく週刊誌的興味で恐縮ですが。

奥村 三井物産の運輸部輸入第一課で木材の輸入を担当する

ことになって、一年余りは頑張ってみたのですが、僕はどう

しても商社勤めが出来る人間ではないとわかったんです。そ

れで大学時代からやっていた短歌とか文学といったことをや

りたくて辞めたいと言ったものだから、物産としては引き留

めようとしてね、最後には副社長まで来て、物産には文書課

もあるからそちらに移って両方やればいいじゃないかとまで

言われましたが、そういうわけにもいかなくて辞めました。

―― 小説家をめざしておられたのですか。

奥村 いえ、小説評論です。大江健三郎論とか、ドフトエフ

スキー論とか、カフカ論などを書いていました。

―― でも、その時にはもう結婚を決めていらしたのでしょ

う。よく奥様が納得されましたね。

奥村 そう。彼女がどう言ったか忘れましたが、僕が強引に

辞めちゃったんですね。彼女は専任で学校に勤めていました。

七月に物産を退職して十月に結婚しました。

―― 奥様、佐藤慶子さんも歌人でいらっしゃいますね。肝

が据わっているというか、人間が出来ているというか、それ

だけ、奥村さんへの愛と信頼が強かったのでしょうけど。お

二人はどういう出会いだったのですか。

奥村 僕が「コスモス」に入会したのは昭和三十六年の五月

ですが、彼女はその少し前に入会していました。自分は入会

するとその年のうちに学生を集めて「グループ・ケイオス」

を作り、その仲間に彼女も入っていたんです。これは後に、

高野公彦とか桑原正紀、影山一男、坂野信彦なんかも参加し

て、「Gケイオス通信」というのを51号まで出しました。

―― 理解のある女性でよかったですね(笑)

奥村 いやあ、ほんとです。自分としても申し訳ないという

か、今でも感謝しています。

―― 会社員を辞めて教員になられたのですね。

奥村 生活していかなくてはなりませんから、考えてもう一

度、東大に学士入学して教員免許を取得しまして、芝学園と

いう中高一貫校の社会科教諭になりました。

―― 「コスモス」の大松達知さんとか影山一男さんが奥村

さんの教え子なんですね。どんな生徒さんでしたか。

奥村 影山君は前衛短歌の時代だったので、そちらに惹かれ

ていたようで才能がきらめく方でしたね。それでも僕の縁で

「コスモス」に入って少し変りました。大松君は僕のような

歌いかたですが、高野さんなどから吸収して自分なりの歌柄

を作りだしています。

縄跳びを教へんと子等を集め来て最も高く跳びをり妻が

 

―― 童話作家の佐藤さとるさんが慶子さんの従兄に当たる

そうですね。コロボックルのシリーズはわが家でも子供たち

の愛読書でした。

奥村 さとるさんのお父さんは佐藤完一といって海軍の軍人

でしたが、「アララギ」の歌人だったんです。空母「蒼龍」の

乗務員として真珠湾攻撃にも参加して、最後はミッドウエイ

の海戦で戦死したそうですが。

―― 何年か前、「歌壇」に川本千栄さんが佐藤完一の一首

〈戦闘部署に非直の兵を寝かしめて乏しくなりし水飲み下す〉

を取り上げて書いておられました。

奥村 一方、慶子の父親は勤め人でもありましたが画家でし

て、若い頃には短歌も作っており、後年は「コスモス」で作っ

ていました。絵には本腰入れてて銀座の画廊で個展を五十回

くらいやっていると思います。

―― ああ、やはり、佐藤慶子さんの歌に

 テーブルに座れば窓から庭が見え夏には父の浜木綿が咲く

 冴え冴えと色鮮やかに今も咲く父の描きし紫陽花、浜木綿

というのがあって、それでお父様が画家なのかな、と思って

いました。素人の趣味の絵だったら年を経てまでこのように

は歌わないかと思ったので。

奥村 その浜木綿は茅ケ崎の慶子の実家の庭からわが家の庭

に移植したもので、父親の形見として大事にしてるんです。

―― 今はご夫婦お二人の生活なのですか。

奥村 子供は女と男と一人ずついますが、それぞれ家庭を持

っていますから、夫婦で、歌などやりながら暮らしているわ

けです。

―― 昨日、夕方お電話したときはお留守でしたが、今でも

夕方はかならず歩いていらっしゃるのですか。

奥村 今はもうそんなでもないですが、歩数にして四〇〇〇

歩、二時間くらいですか。家のあたりは歩くのにいいところ

がたくさんあって、ついでに買い物したりします。

―― お住まいは下赤塚ですね。わたしは結婚して三年くら

い、お隣の駅の東武練馬、徳丸町に住んでいましたから、な

んだか親しい感じがして奥村さんの歌は始めから意識して読

んでいたんです。

奥村 徳丸町ですか、ああ、すぐ近くですね。

―― 買物には北町商店街によく行きました。物価が安くて

庶民的で、住みやすいところでした。今はもうすっかり変っ

ているでしょうけど、もう一度歩いてみたいです。

奥村 僕は健康維持というか、血圧がちょっと高いのでそれ

で歩くようにしているんです。

―― ダイエットされている歌が何首もありましたが。

奥村 血圧のこともあって以前は体重を落とさなければ、と

思っていましたが、この齢になると自然に落ち着いていまは

ちょうどいいくらいですね。

―― 一病息災といいますが、それ以外はこれまで大きなご

病気もなくお元気そうで、海外へもずいぶんたびたびお出か

けになっていらっしゃるんですね。年譜を拝見して、評論や

歌集出版のあいまに中国はもちろん、アジア、ヨーロッパ、

アメリカ、ロシアなど、そのタフさに驚嘆しました。

奥村 それは商社を辞めて教員になったから出来たことです。

まず、三十代に私学の団体に加わって東欧から西欧、米国ま

で三十五日間という少し贅沢な旅行をしましたし、その後も

夏休みを利用しては八日から十日間くらいのツアーに参加し

て、毎年のように中国、シンガポール、タイ、イングランド、

ドイツ、オーストリア、スペイン、旧満州、ベトナム、トル

コ、ロシアなどへ行きました。中国は宮英子夫人を団長とし

て宮柊二先生の戦跡を訪ねる十日間くらいの旅を重ねました。

観光地とはちがう未開の地を巡る珍しい旅でした。それは全

部で九回くらい企画されたのですが、勤めの関係で、僕は五、

六回くらい参加しました。

―― 奥村さんはほんとに人生を存分に生ききっていらっし

ゃるのですね。もちろん、時間とお金も必要ですが、何より

健康でないと出来ないことですから。

奥村 親からもらったからだですが。妻も僕も八十代になり

ましたが、幸い、大病もせず夫婦そろって今日まで元気でこ

られたことに感謝しています。

―― 遺伝的に避けられない病気もありますが、あとは本人

の生活習慣ですね。心がけて歩くとか、趣味を愉しむとか。

二〇〇五年には『スキーは板に乗ってるだけで』という歌集

もありましたから、スキーもなさっていたのでしょう。

 

不思議なり千の音符のただ一つ弾きちがへてもへんな音がす

―― 奥村さんというとギターですね。『多く日常の歌』が

二〇〇九年ですが、その中にもう三十五年ギターをやってい

らっしゃるという歌がありました。

奥村 しかし、僕にはギターは向いてないんです。歌もそう

ですが。趣味で囲碁もやっていますが、碁も向いてないとい

う感じなんです。ギターも自分の部屋では弾いていますが、

ちょっとした発表会でも人前で弾くと手が震えちゃうんです

よ。囲碁もギターも歌も僕には向いてないと思います。

―― ご自分でそう思ってらっしゃるだけで、それだけ長く

続けておられるのはすごいと思いますが。

奥村 短歌も下手なんですが、最近はまあ何とか歌一筋でい

くしかないかなと思いはじめています。今ごろになって自覚

するのでは遅すぎるのですがね。囲碁もギターも趣味として

は続けていきますが、人前でやるのは断念して自分ひとりで

愉しむことにしました。

―― わたしもほんの短い期間ですが、クラシックギター教

室に通ったことがあるんです。でもやはり、発表会では震え

てしまって、自信のないことでは残念ながらあがりますね。

第一、わたしは手が小さいからセーハがうまく出来ない、指

が攣ってきちゃうんです。

奥村 短歌に関することで話すのは、何百人の前でも何時間

でも平気なんですけどね。

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文

具店に行く

―― 奥村さんの歌は、言われてみればその通り、と意表を

衝かれるところがあって、実に面白いですね。

 もし豚をかくの如くに詰め込みて電車走らば非難起こるべ

 し                    『鬱と空』

という満員電車の歌が好きですが、ほんとにそう、人間でな

く豚を詰め込んだら大変な非難ですよね。今はフレックスタ

イムとか、パソコンを使って在宅勤務する人もあって、ひと

ころのような殺人的なラッシュはないようですが、この歌は

社会批評であり、深い読みが可能だと思います。

 お出ましの〈日光〉〈月光〉上野にて今日また巨きお金を稼

 ぐ                 『多く日常の歌』

 国宝薬師寺展の歌ですが、荘厳な仏像を前にして上野まで

来てお金を稼いでいるんだ、と。そんなこと思ったこともあ

りませんでしたが、彼らは自分たちの思惑に関わらずお金を

稼いでいるわけなのですね(笑)

奥村 僕は若い頃からしばしばお金のことを歌にしていたよ

うで、あるとき、歌の仲間から「奥村さんはよくお金のこと

を歌にするけれど、それは商家の出だからでしょう」と言わ

れたことがありました。僕の父は長野県飯田の農家の三男坊

でしたが、町の質屋に丁稚奉公しまして、真面目に働いて、

商才があったんでしょうね、一代で財を成しました。具体的

にいうと人口二十万の谷間の町でしたが、そこで所得番付一

位になったんです。でも僕はその跡を継ぐことは拒否して、

東京に出てしまいましたから、商家の出ということを意識し

たことはありませんが、お金のことを歌うと言われればたし

かにそういうところがあるかもしれません。

―― 「ただごと歌」は奥村さんの専売特許みたいになって

いますが、でも、見てゆくと、世の中にはこれもあれも「た

だごと歌」だと思われるものはたくさんありますね。わたし

の歌会でも考えてみたら、みんなただごと歌です。でも奥村

さんの歌は、心底そう思っている、断然それが短歌というも

のなのだ、と信念を持ってやっているという迫力が違います。

歌集を読んでゆくと第三歌集『鴇色の足』あたりからその

傾向が顕著になったように思いました。

奥村 僕には感傷的なところがないんです。自然の細かな描

写には興味がないし、そういった類の歌にも興味が持てない

んです。歌は何よりも心ですね。物事に出会った時の感動を

的確に表現することをめざしてやっています。

―― 高野公彦さんは奥村さんのそういう主張に対して最初

どのようにおっしゃっていらっしゃいましたか。

奥村 そうねえ、奥村の歌は下手くそだけど、ときどき途方

もなくすぐれた歌を作る、と言ってくれましたね(笑)

―― ほんとに。歌集を読んでいて思わず、そうよねえ、と

声に出してしまう歌がいくつもありました。それで忘れられ

なくなる。奥村さんの歌で気が付かされると、その後、バス

の運転手を見ても、大雪警報を聞いても「東京のどこが積雪

二十センチ」とすぐ思ってしまうようになりました。

 

当たり前を当たり前として懸命に歌ふオレの歌認識の歌

―― 『ただごと歌の系譜』の中で興味がある歌人のところ

を一夜漬けで読んできましたが、近世では歌で食べてゆく、

ということができたのですね。小沢蘆庵にしても橘曙覧にし

ても、たしかに極貧ではあったようですが、生業というもの

は持たないで、お弟子さんに歌を教えたり支援者があって生

活している。歌というものの価値が今より高かったというか、

歌人は今より尊敬されていたように思います。

奥村 大雑把に歌の流れを見てみると、まず「万葉集」の時

代があって、紀貫之の古今集時代、藤原定家の新古今集時代、

それから近世・江戸時代の歌があって、近代・現代の歌にな

るわけですが、江戸時代の場合は、芭蕉もそうだけれどパト

ロンが居てね、たとえば田舎だったら地主とか、大きな庄屋

さんとかゆとりがあるから、歌人ぐらいじゅうぶん養って行

けるし、小沢蘆庵なんかも全国に何千人も門人がいたわけで

す。要するに歌の寺子屋みたいなものですね。

―― そうなんですか。小沢蘆庵は晩年は太秦の廃寺で自ら

の信ずる歌の論を書き上げることに邁進したということで、

なんだか修行僧みたいな感じを持ちましたが。それでも暮し

は門人が支えてくれたんですね。

奥村 自分のことに引きつけて言うと、幸い定年まで大過な

く勤めあげたおかげで、今は年金で暮らしていけています。

つまり、年金が僕のパトロンなわけです。年金が支えてくれ

て好きな歌をやっていられる。まあ、それも我々の世代まで

でしょうけどね。

―― ほんとに。働き方改革だか何だか、今のような勤務体

制では当然、ゆとりを持って短歌を作っていこうという若者

は少なくなってしまいますね。特定の結社以外はもうどこも

先細りで、閉じてしまった結社がいくつもあります。

奥村 でもね、たしかに結社に所属して下からこつこつやっ

てゆくという若者は少なくなったと思いますが、僕の知るか

ぎりでは、素質のある若者も出てきているんですよ。それに

は二通りあって、一つは生活がじゅうぶんに保障されてゆと

りがある中でやっている人、もう一つはかつかつにアルバイ

トで生活をつないで歌に賭けている人、という二つのタイプ

があります。

―― まあ、そうなんですか。近年、出てくる若い歌人と言

えば東大、京大、早稲田、慶応といった偏差値の高い大学を

出ている人ばかり、というイメージを持っていました。つま

り経済力のある家庭で育った人が多いのだろうと。

奥村 僕の短歌教室とか、ウエブ歌会とか、僕のツイッター

を通して参入してくる若者には熱心なのがいっぱいいます。

もうこれ以上増えたら困るというくらい。つまり、ツイッタ

ーというのはタダで、どんどん自分の作品が発表できるから、

そこで知り合って、若い人同士リモートで歌会をやったり、

切磋琢磨して賞を狙ったりしてね。ただ、さて中身は、と考

えるとツイッター短歌というのはすこし軽くなる傾向があり

ますから、馬場あき子さんや小池光さんが言っていましたが、

やはり、短歌には人間の刻印が要るのでそこは問題です。彼

らはそのときのちょっとした気分とか雰囲気とかで、アクロ

バティックに言葉を使って表現して、一方でそれをまるで謎

解きするように解釈して、迎えて迎えて認めあっている。

―― ツイッターというものをやっていないオバサンとして

は理解できないところではありますが、でもそんなに熱を入

れて短歌を作っている若者がいるのは心強いですね。

奥村 何々新聞の誰々という選者に選ばれたとか、仲間内で

評価されて喜んでいるレベルではまだまだですけどね。この

ごろでは安価に歌集を出す出版社が出てきて、それもまた手

軽に短歌をやれる一助になっていると思いますが。

――それにしても失礼ですが、奥村さんの年代でツイッター

やズームで若者と歌会ができている人って他にいないですね。

奥村 そう、いないでしょうね。出来る人はいるでしょうが、

そういう人は逆に忙しくてコミットしない。

―― サービス精神がないと続かないでしょう。ツイッター

をされるのは夜ですか。

奥村 朝まとめて色々とツイートします。また皆さんのツイ

ートをのぞき見します。午後、散歩の折に写真を送ったりし

ます。夜は早く寝るのでもうしません。

―― わたしは活字で育った人間なのでツイッターというの

は定着しないような気がするのですが。こののち短歌という

文芸そのものが変質したら別でしょうけど。

 

満開の桜の房の一花いつくわ一花いつくわほのかに笑ふわれ見下して

―― 話を戻して、『ただごと歌の系譜』ですが、どういう

きっかけで江戸時代短歌の研究に着手されたのですか。

奥村 万葉から古今・新古今などの和歌はもう散々研究され

尽くしている、近・現代の短歌もわかっている。それで江戸

時代の歌だけが暗黒の世界のようでわからないと和歌史はつ

ながらないから、僕は黒崎善四郎さんとか松坂弘さんと一緒

に「近世和歌研究会」を作って「江戸時代和歌」という雑誌

を十四冊出して、代表的な歌人十四人の特集を組んだわけで

す。それでようやく僕のなかでは日本の和歌史というものが

おかげさまで繋がって理解できました。

近代短歌に繋がる要素というのはもう江戸時代の中頃から

始まっているんですよ。一七〇〇年代後半、つまり十八世紀

後半から、江戸では賀茂真淵を筆頭とする革新運動がかなり

進んでいたんだけど、京では定家末流の堂上和歌が最盛期だ

った。いわゆる「平安四天王」と呼ばれた四人の歌人がいた

のですが、その中で最大グループを率いていた冷泉為村に破

門された小沢蘆庵が、後の「ただごと歌」を切り拓いていく

ようになるのです。どういう経緯で蘆庵が為村に破門された

のかはよくわからないのだけど、五十歳で破門になってから

の十五年間、研鑽を積んで六十代の後半に、論作共に一挙に

成熟して、蘆庵の短歌、すなわち「ただごと歌」を作りあげ

たんです。ただごと歌を唱え、作り、実践するほどの人です

から、蘆庵の学識というか、教養の蓄積は当代随一だったと

思われます。技の蓄積も並みのものではなく、意欲的、実験

的な作品も多岐に亘りたくさん作りました。でも本流として

の技巧は弄さない「ただごと歌」を作り上げた。したがって

今日の短歌のスターターは小沢蘆庵そのひと、というのが僕

の短歌史観なんです。

―― 江戸時代の歌というものをなんとなく敬遠していたの

ですが、今回、ご著書を拝見してよくわかりました。奥村さ

んが日常の折ふしの感動をベースに歌を作られるという、歌

の立場の根本が少しは理解できたように思います。ツイッタ

ーに発表される短歌ものぞいてみようかな、と思いました。

今日はお付き合い下さり、いろいろ有難うございました。

(二〇二二年二月一五日 千代田区小川町PARC自由学校にて)

 

奥村晃作 一九三六(昭11)年長野県飯田市生。「コスモス」所属。

歌集「三齢幼虫」『鴇色の足』『父さんの歌』『キケンな水位』『多く

連作の歌』『多く日常の歌』『八十の夏』他多数。評論『隠遁歌人の

 

源流』『ただごと歌の系譜』『賀茂真淵・伝と歌』他。

エッセイ 真夏のアンダルシア

 

わたしは夏大好き、太陽大好き、暑さ平気人間であり、真夏の南部スペイン、地中海寄りのスペインを旅した折を、回想してみようと思う。

一九九九年七月一四日から八日間、ツアーに参加した。六十三歳の折であり、我ながら若かったなあと思う。

 一四日、フランクフルト経由でマドリードに着いた。市内の交差点の温度計は43度を示していた。

 一六日、コルドバまで数時間特急列車に乗った。その沿線はラ・マンチャだが、見渡す限り、オリーブの、又はブドウの畑が広がっていた。

 

・桑のごと一株毎に土低くその葉茂らすブドウの樹らは

・赤茶けたラマンチャの礫土オリーブの古木幾万整然と植う

・スペインのフライパンとうコルドバの昼下がりの街40度超す

 

 一七日、コルドバからはバルセロナまで四日間かけての長距離バス旅行。先ずはセビーリャ・ロンダ・グラナダとバスで見歩いたが、いわゆるそのあたりはアンダルシアである。  

旅の動機の一つには永井陽子のアンダルシアの歌の誘いもあったかと思う。

「ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり」

 

 なるほどアンダルシアは向日葵のメッカ。至る所に向日葵畑が広がり、殆ど向日葵だけが延々と植わっていた。ところが、その向日葵が全て真っ黒の枯れ姿。干ばつで枯れ果てた向日葵がどこまでも続く光景を見たのであった。

 その折詠んだ歌から以下に二首を拙歌集『ピシリと決まる』から引いておく。

 

・ヒマワリは立ち枯れのまま炭化して砂漠なるべしコルドバの丘

 

 

・ヒマワリはどこも全滅オリーブの幼木は育つアンダルシアの丘